「国語の勉強」は一日もかからずに終わる
私が尊敬する、元代ゼミ英語講師の鬼塚幹彦先生は、授業中しばしば「英語の勉強は1日で終わる」とおっしゃっていました。1日に起こるすべてのことを英語で言えるようになれば、英語の学習は必要なくなるということのようです。
まあ、実際1日で英語の勉強が終わるわけはないんですが^_^;
しかし、それにならった言い方をすれば「国語の勉強」こそ1日も必要ないと言えると、私は思います。
私はよく、国語は習慣の教科ということを申します。
塾で国語を習う。その名も「国語道場」で国語を習うなどというと、さぞスペシャルなテクニックを教えてもらえるんじゃないかと思われる方がいらっしゃるかもしれません。
言っておきますが国語の読解のスペシャルテクニックなんか存在しません。『カンフー・パンダ』のお父さんが作るラーメンの「秘密のスープ」並みにそんなものはないです。
現行の中2の国語教科書に、椎名誠作の『アイス・プラネット』という小説が載っています。その中で、主人公の叔父(ぐうちゃん)が、世界遍歴の旅に出るため、居候していた主人公の家を去っていくというエピソードがあります。ぐうちゃんが去った後、がらんどうになった彼が寝泊まりしていた部屋で主人公が佇む場面があります。
子どもたちに聞いてみると、その場面の「絵」を、みんな想像していないんですよね。部屋の中はどんな感じだとか、時間は何時頃で日の光はどんなふうに部屋に差し込んでいるかとか、主人公はどの辺から部屋を見ているかとか・・・。何を聞いても「はぁ」、「さぁ」みたいな反応。
けっきょく皆さん国語の読解というものを勘違いしているんですよ。「国語」のテストや問題集の問題の答えを出すことにばっかり頭がいっていて、書かれていることを《読む》ということがどういうことか、根本的に分かっていない。
《読む》ということは、書かれていることに積極的にかかわっていくことです。小説だったら、ちょうど自分が映画監督にでもなった感覚で、周りの風景、登場人物たちの立ち位置、表情、声の感じとかいったことを、自分の頭の中で再構成していくようなことです。それなのに、多くのお子さん(または親御さんたちも)「国語」のテストや問題集の答えを出すことしか頭にない。だから子どもたちが《読む》ことに没頭できなくなっているところがあると思います。
文章に対して、そこに書かれていることを自分の頭の中で再構成するような、積極的なかかわりという意味での《読む》習慣ができれば、その時には国語の勉強は必要なくなります。その意味で、「国語の勉強」は、今この瞬間にも終えることができます。
そのあとには《読む》という習慣を身につけた豊かな人生が続いていくことになります。